青色えのぐ


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ミルキーウェイ(みるきーうぇい)5

つまずいて、氷室が前のめりに倒れこむ。ふだんのいかめしさからは想像つかない可愛らしい悲鳴が聞こえたような聞こえなかったような。

私はその瞬間には身体が動いており思わず手をさし伸べたのだが、ケーキ箱の存在が枷になり彼女には届かなかった。いや決して氷室とケーキを天秤にかけたわけでなく、純粋に不可抗力である。

「ちょ、……ちょっと氷室さん、大丈夫ですか」

ケーキ箱を投げだし……たりはせずに早足で氷室のもとにもどる。彼女はうつ伏せで全身を弛緩させ、ぴくりとも動かない。

どこか打ちどころが悪かったのか……!

「ひ、氷室さん!」

返事はない。

さすがに私はケーキ箱を(慎重に)放りだして、氷室の身体を支え起こした。いくら怖くても近寄りがたくても、こんなとき彼女の身を心配しないほど私は恩知らずではないのだ。

彼女の瞼はとざされ、眠っているようにも見えた。

「氷室さん! 氷室さん!」

肩を揺すっていると、だらりと彼女の腕が、力なく垂れた。

肘のあたりからだろうか、……白い肌に赤い血が伝い、ぽたりぽたりと流れていて、

「――あぁ、」

それを見るなり私の視界が暗転しやがった。

 

◆ ◆ ◆

 

かつん。かつん。

と、小気味よい足音を刻みそうな、リノリウム張りの廊下。

なんの変哲もないただの廊下がはるか遠方まで一直線に伸びている。果ては見えず闇に溶け込み、どこまで行ってもおなじパーツだけで構成され、どこまで続いているのか知れない。

電灯は消されているけれど、窓から差し込む月明かりや、人型がまぬけな格好で押し固められた緑の非常灯に、やたらと真っ赤な防火栓のせいで暗闇とはほど遠い様相だった。

私は――私の視界は、廊下のまんなかをただ歩いている。時おり目線が左右にふれたり足元を見たりして、なにかを探しているというよりは、何気なく意味もなく視線をさ迷わせているふう。

右手は、よけいな力はいっさい抜いて、なにかを握っている。

それは、薄刃で華奢な造りの刃物で、違和感なくそこにある。

鋭利な刃は、暗い何色かに塗れていて、ぽたりぽたりと伝って流れ落ち。

かつん。かつん。

と、小気味よい足音を刻みそうな、リノリウム張りの廊下。

なんの変哲もないただの廊下のはるか遠方から、こちらに向かって点々と、暗い何色かのしずくが垂れてはじけていた。

 

◆ ◆ ◆

 

「――おい!」

その声を認識した瞬間、私の目のまえに星が飛んだ。というか私の身体がぶっ飛んだ。頬が熱い。何事かと、身体を起こして声のほうを向き直ると、氷室がやや色あせた幾何学模様を描くタイルの路面に座って私を睨んでいた。

私は、まだ目が回っている。

湿った路面に倒れたためか、背筋に不快感。でもそれ以上に、いま見たフラッシュバックの映像が、私の腹の底にわだかまりを残している。

なんだあれは……?

夢、みたいなものだろうか。病院? 学校? 少なくともここ数日の行動に、あのようなメニューは含まれていない。

ということは……?

それはともかく、うずく頬を押さえながら私は言った。

「えーと……私が危うく落とし穴にはまりかけたところ氷室さんが身をていして助けてくれたんですね。ありがとうございます」

「そんな事実はない」ふんと鼻を鳴らして氷室が言う。「意味がわからないわ。あんたに添い寝を頼んだ覚えはないのだけれど」

……私もいっしょになって伸びていたのか。氷室の眉間にそうとう深いしわが寄っている。

「記憶をたどってみても、たしかに私も頼まれた覚えはありませんでした。するといったいなにが起きたというのだろうか……」

もしや、と私が新説を披露しようとしたところで、氷室に遮られた。

「それはもういいから、ちょっと頼まれてくれる」

「はい?」

「……そこら辺でこれを濡らしてきてちょうだい」

言いながら、氷室がハンカチを私によこす。可愛らしい白地に花柄のそれは、なんだかやけに少女趣味に見えて、意外だった。

「え……」

氷室の左腕からは、出血が止まっているようだ。しかし傷の状態はわからず、正直笑って済ませようとは思えない。

「う、うわ、うわわわわ、血が、血が出てるじゃないですか氷室さん、あわわあわわわわ、ひ、氷室さん!」

血を見るとまた目が回りそうな気がしたのですぐに視線を逸らす。もしかして私は、苦手なのか。

「うるさいわ」

氷室がさっと周囲を見遣り、私に視線をもどして言う。

「……むかしから血が止まりにくいのよ。このままだと服が汚れるから」

「え、ええ」

私が取り乱してどうする。

「……わかりました。じゃ、すぐもどります」

すぐ近くの古くさいベンチに氷室を座りなおさせて、私は駆け出す。

もっともすぐ戻るといっても、私は園内の構造を知らないため水道がどこにあるのかわからないし、できればそれなりの対応をしたほうがよいとも考える。

ならば、と閃いた。

ドラッグストアがひとっ走りで届く距離にあったので、そこで救急箱を丸ごとひとつ購入した。止血、消毒、保護までできるセットというのが売りだそうで、応急処置はばっちりだ。

息を切らせてやってきた人物が救急箱を買ってゆく、というのは傍から見たらなかなかシュールな光景だろう。だって救急箱なんて日頃から備えておくべきもので、必要になったから急いでます、なんてやつはあまりいない。

そこまで火急を要するならふつうは救急車を呼ぶ。

まあ必要なものがまとめて手に入るという点で私の選択はまちがっていないのだが。

そして自販機でペットボトルのミネラルウォーターを手に入れて、あとは引き返すだけという段になりいっそう脚に力を込めて地を蹴ったところ、曲がり角でサラリーマン風の男にぶつかった。

「ぐわっ」

私が悲鳴をあげてすっ転び、手放した救急箱ががらがら音を立てて転がる。男は「おっと失礼」などと言いながら平然と立っており、ひとりぶっ飛んだ私が非常に損した気分にさせられた。

自分で言うのもなんだが、ふだんは視線や気配がどうのこうの言ってるわりにこういう凡ミスをやらかすだなんて、それほど気持ちにゆとりがなく、焦っていたのだと思いたい。

「……こちらこそすみません」

「大丈夫ですか?」と男が手をさし伸べてきたが私は無視してひとりで立ち上がる。

まことに残念ながら私はスカートをはかない主義であるため、お約束のサービスシーンは丸きりカットだ。でも冷静になってみるとそんなもの見せたいとも思わない。

ちなみにこういった具合に曲がり角でぶつかってよいのは本来なら遅刻しそうな登校時、トーストをかじっているときだけと決まっているので気をつけよう。

気分的には男に罵声の一つでも浴びせてやりたいが、優先順位の関係上、救急箱の無事を確認して私はふたたび走る。

そして息も絶え絶えに氷室のもとに到着すると。

「遅いわ。どれだけ待たせるつもりなの」

彼女に労いの言葉をかけられた。

せなか痛い。


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