他人を見る目(たにんをみるめ)1
とあるエピソードがある。
『逆行性健忘の人物に適当に電話番号をダイヤルさせたら彼の人の実家にかかった』
『前行性健忘の患者が鏡文字を記す訓練を積むことにより技術的な向上が見られた』
逆行性健忘とは要するに「ここはどこ? 私はだれ?」の過去を失った状態で、対して前行性健忘はそれまでの記憶は無傷に、新しい事柄を覚えられなくなった状態と考えればよい。
どちらのケースでも、当人の意識に上らぬはずの動作を彼らがこなせたのはなぜであろうか。
結論をいうと、彼らの身体が記憶していたのだ。
◆ ◆ ◆
好きな食べ物はなんですか? と問われたら迷わず私は「ソフトクリーム」と答える。
ふわふわのクリームが舌のうえで溶けて甘みがひろがり、コーンは単なる器でなくさくさくとした食感がまた新たな刺激となり、外観はとても涼しげで、味だけでなく目で見てもたのしめるすぐれものだ。
こうして食べているあいだにもつぎはどの味を選ぼうかと考え、それだけで嬉しくなる。
もしもずっと毎日三食これだけを口にしろと命ざれても肉体的な限界がこなければ延々と続けられるはずだ。ソフトクリームをはじめに考案したものを私は敬愛してやまない。
さて、――ところでいま私は何者かの尾行をうけている。とはいっても振り向きざまに「ちょっと尾行してるやつ手をあげろ」と叫んだところで「はい自分がそうであります」などと応じてくれるわけもなく、確証はなく感覚の域をでず、どころか勘ちがいである可能性さえある。
しかし尾行者の実在を疑う反面、おなじくらい、やはり誰かにつけられていると、私は思っている。いないことを証明するのは甚だ困難ではあるが。
「……はあ。こういうのを自意識過剰というんだよなあ。嘆かわしい」
陽射し避けのパラソルの下ぬるいプラスティックの椅子に腰かけ私はひとり呟いた。
駅近くのとあるファストフード店、店舗のすぐそとの飲食スペース。簡素な丸いテーブルとそれを囲う四脚の椅子にパラソルが数セットずつ設置されていて好きなように利用できる。
昼もややすぎたころとあり座席は談笑する客でそれなりに埋まっている。
私は隅っこのほうに陣取り、通りを眺めていた。
衣類の補充を終え、あとは蒼に頼まれた買い物を済ますだけという段になって何者かの視線に気づいてしまった私は、なんとなく帰るに帰れずにいたのだ。
道行く人はだれもが思い思いに歩いていて、ひょっとしてこんなにも悩んでいるのは私だけなのかもしれない、と錯覚に陥る平和な風景。
もしも尾行者がいるならば。
一ヶ所で長時間とどまれば自然それらしいやつが見えてくるのではないか(ひとけのないほうに誘導することも考えたが歩くと疲れるのでやめた)。
そいつは善良な一般市民と動きに差異があるはずなので、不自然に足を止めるやつや幾度となく私のまえを横切る怪しいやつを探せばよい。
「はあ……、」
うっかり魂まで抜けてしまいそうな、長々としたため息が出る。
「あほらしい」
尾行をまくのが目的であれば一瞬の勝負で片がつくだろうに、捕まえるとなればそうはいかないし、もしも相手がその道のプロなら簡単に尻尾を出すとは思えない。
だけれどそいつを締め上げることで私の現状を把握できるかも、ということなら賭けてみる価値もないでもない。
……気が乗らない暇つぶしだよ、まったく。
もういちどため息をつくと、私はぐらつくテーブルに頬杖をついて人の流れを観察する作業にもどった。
いや、もどろうとした。
「ちょっといい?」
だからそれが私にあてられた言葉であると思い至るまでに数秒を要した。
短い髪を茶色に染めた青年。顔つきはまだ幼さが残る感じで、Tシャツにジーンズとラフな格好だ。にこやかに笑っている。
「ここ、あいてるかな?」
私が反応できずに無言でいるのを承諾と解釈したのか彼は音を立てながら私の向かいの席に座った。
「……そこも、あいてるみたいですよ」
私が指さして空席があると教えてやったのだが、青年は「ははは」なんて笑って聞き流すばかりか妙に親しげに話しかけてくる。
「今日は天気がいいよねえ」
こいつはたしか、先ほどから隣のテーブルでしきりに私のほうへ視線をよこしていたやつだ。何事かと考えてはいたが鬱陶しいので視界から外して気づかぬふりを続けていたのに。
なぜわざわざこちらにやってくる。
「曇っているみたいですが」
「ソフトクリーム、好きなの? 甘いものとか好き?」
「まあ好きですけど」
適当にあしらっていると「へえ、そうなんだ」はははと笑って「俺もたまにすごく食べたくなるんだよ」などと言いだした。
べつに聞いちゃいない。
「疲れてるときとか、甘いもの食べたくなるっていうじゃない」
「らしいですね」
「あれって糖分の分解が早いからはやくエネルギーの補給ができるからなんだってさ」
「はあ」
我ながら気がない返事だとは思うが。
私は甘いもの談義をしにきたつもりはない。ひょっとしたら知らずうちに甘味友の会の本拠地にでも迷い込んでしまった可能性も考慮したが、改めて視線を泳がせるとふつうのファストフードの看板が見えた。
「えーと……どこかでお会いしましたっけ?」
らちが明かないから私が問いかけると青年はぎくりとしてのけぞった。すぐに笑みをとりもどしたが頬が引きつっているし、私の目はごまかせない。
「いや、今日がはじめてだと思うよ、ははは」
一瞬、こいつこそが尾行者かと考えた。だが相変わらずあの感覚は消えないし、青年に明らかな敵意があるかといえばそうでもない。
目によからぬ光が宿っていはいるが。
それこそ不快に感じる原因なのだが。
……ああ、なるほど。読めた。
きっと隙を見るや何気なさを装って「あなたはいま幸せですか?」とか「神の存在を信じますか?」とか「この壷を買いませんか?」などと言いだす魂胆だったのだろう。
おあいにくさま。相手が悪かったな。
この手のやからは曖昧な態度をとるとつけ込まれるので注意を要する。
私は無言で席を立った。
「あ、ねえきみ――」
手をつかまれそうになったので避けると、
「すみませんね、ちょっと狼煙が見えたんで任務に行ってきますわ。ごきげんよう」
自分でもよくわからないことを言って青年とのあいだに不可視の壁を作りだし、早足でファストフード店の自動扉をくぐる。空調が効いていて快適だ。
もうひとつ買ってから場所を移そう。
「チョコミックスください。――大盛りで。あとスマイルもおねがいします」
店員に告げると苦笑が返ってきた。私としては特盛のスマイルがほしかったのだけれどそれは高望みだったかもしれない。
受けとって、さてどこに行くかと思案しながら外に出る。
「あれ?」
先ほどの勧誘員らしき青年が、つぎの獲物に狙いを定めて勧誘活動に精を出していた。あれから五分も経ってないというのにだ。
その対象はというと、ひらひらしているタンクトップっぽいの(名前がわからない)と膝上までのハーフパンツという軽装に短めの髪がよく似合う年頃の少女、だった。
青年は「ねえきみ、ちょっといいかな」みたいなことを言いながら自動扉のまん前で、少女の行く手に立ちはだかっている。
少女は口元を引きつらせて対応に困っていた。
「え、あの……」
「ドリンクおごるからさ」
「あたしこれから用があるので……」
「へえ、どこに行くの?」
何割か埋まっている座席からは騒動に気づいているらしい動きもちらほら見える。
だが、青年と少女のやりとりに好奇の視線を投げかけているだけ。
ただそれだけだ。
めんどうだなあ……。
なにも出入り口のまえでやらんでも、と思う。
いい迷惑だった。
私は大きく息を吸うと、
「へーい、ジェリーじゃないか! 懐かしいなあ!」両手をひろげて大仰な身振り、芝居がかった口調で話しかける。「どうしたんだよ、近くにきたなら電話くれればいいのにさ! すぐにでも飛んで迎えにいくって言ってるじゃない! ははは!」
呆気にとられた青年を力ずくで押しのけて少女に正面から抱きついて欧米風の挨拶。
「え――と、え? え?」
「おれだよ、おれおれ。なんだよ忘れちゃったのかよ。ひどいなあ。俺だって。ほら思い出した?」
ばちり、とウインクしてみると、少女は「と、トム?」とか言いだして混乱に追い討ちをかけてしまったようだ。ちょっとした失策。
まあ普通はだれだって驚く。
「そうトムだよトム。はっはっはー。ほらソフトクリームだよこれをあげよう。きみの大好物だったよね」
私の両手はふさがっていたので、名残を惜しみながら一口分だけ欠けているチョコミックスを少女に手渡した。
こっそり周囲を窺うと、大丈夫、だれもが訳が分からないという顔をしている。私だってわからない。
なので私は深夜の通販番組でよく見かけるわざとらしい笑いを浮かべながら、さっさと少女の手を引いてファストフード店をあとにした。