青色えのぐ


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ミルキーウェイ(みるきーうぇい)3

七日めの朝、居間には珍しい光景があった。

氷室が朝から活発で、朝比奈はいまだ眠らずに、学校が休みらしく夕凪までもがそこにいる。

ふだんこうして揃うのは夜がおもであるため、半日ほど私の生活サイクルが逆転した錯覚に陥ったけれど、しかし蒼に起こしてもらったのだからそれはない。

第一、住人が顔をあわせることそれ自体は、私たちが一つ屋根の下で暮らすかぎりごく自然なことである。……のだが、私を見るなり一斉に挨拶をされるとなんだかおかしな感じがする。

「おはようございます。こんな時間にみんなそろうって、今日はなにかあるんですか」

ふと、私が疑問を口にすると思い思いの返答が。

「なにか不都合でもあるの?」

「なかなか寝つけなくて……」

「ケイさんを待ってました!」

べつに不都合はなかったし、あいにく子守唄の在庫は切れているうえに夕凪と待ち合わせをした覚えもない。今日は駅ビルの屋上にでも行って市内を俯瞰してみようかなあ、なんて考えていると、

「まあとりあえずそこに座りなさいよ」

氷室のいつにも増して威圧的な態度。まるでこれから説教大会でもひらきそうな勢いで、なるほどたしかに朝比奈と夕凪のどことなく落ち着かない様子も納得できる。

こういうときは逃げの一手にかぎる。

「や、これから散歩に行こうかなあって」

「わたしのお茶が飲めないっていうの?」

「そんなつもりはないですけれど」

「それじゃあどういうつもりなの」

「そりゃ、まあ……」

「答えになってない」

……氷室に『北風と太陽』のお話を読ませてみたくなった。まあ彼女が北風であれば旅人がどれだけ必死に押さえようと上着を吹き飛ばしかねないのであまり意味がない印象を受けるけれど。

「ちょっとミヤコさん! ケイさんをいじめないでください!」

「いじめてないわ。お茶に誘っているの」

「いいえ。どう見てもいじめてますよ!」

言って、夕凪が私と氷室のあいだに割って入った。

すると氷室の攻勢が弱まる。なぜなら彼女は夕凪によわい。

いつも氷室と夕凪は仲がよいのに、私の処遇に関して意見が対立しがちなことに胸が痛まないでもないが、こういうときばかりは夕凪の存在がとても心強く感じる。

でもいつの間にやら夕凪が腕を絡ませようとしてくるのでそっと押しのけて、

「それじゃあ行ってきますね」

隙を突いて私は逃げる。

玄関の戸を引いて外に踏み出し、大きく伸びして深呼吸。爽やかな一日のはじまりだ。

ちなみに七夕である七月七日、今日は年に一度、織姫と彦星とを隔てる天の川に橋がかかり二人が会える日なのだとか。しかし梅雨で晴れる確率は三十パーセントほどと低く、私たちには肝心の天の川が見えないことも多い。

「ケイさーん」

雪割荘の敷地を踏み越えた辺りで、うしろから夕凪に呼び止められた。

「氷室さんからのおねがいです。ケーキを買ってきてほしいって。すなおに頼めばいいんですのにねえ」夕凪はへら、っと意地悪く笑う。「もう注文してあるそうなので、この地図をたよりにお店に行ってください」

夕凪に地図を手渡された。

より正確さを期すならば、乱雑に線がのたくった紙切れを手渡された。

元はB5サイズの罫線つきルーズリーフでいまはそれを手で半分に切られたものに、前衛的な芸術であると説明されたら信じてしまいそうな、画。

「え? 地図? え? なにこれ?」

どう見てもゴミだった。

「それじゃあ、おねがいしました!」

夕凪は用件を伝えるなりさっさと引き返し、私の心にはこの曇り空など比較にならないほど暗雲が立ち込めている。

紙切れを裏返したりこすったり、透かして見ても変化はなく、やはりただの紙切れであることにちがいはなかった。

解読できない宝の地図。

……私にいったいどうしろと?

氷室による本格的な私いじめが始まったのだろうか……。

私は、どの方角にどれだけ進もうがどの路地をどれだけ曲がりくねろうが、この街では絶対に迷わない確信をもっているが(これまでの徘徊で実証済み)、しかし目的地がどこか知らずにたどり着くのは非常に困難である。

だから氷室にじきじきに訊くほかないけれど。

手ぶらで帰ったら氷室になんて言われるだろう。「あらずいぶんお早いお帰りだこと」とか「愚か者には見えないケーキなのかしら」とか言われそうでひどく憂鬱だった。

このまま知らないふりして逃げるという案もじつは真っ先に挙がっている。でも実際にやってしまうと帰ってからが怖すぎる。

「……まあいいけどさ」

生きてゆく上で必要ならばやるしかない。

氷室から地図のほんとうの意味を聞き出そう。

紙切れを四つ折りに畳んで胸ポケットに押し込んで(ゴミのポイ捨てはよくない)、私は決意した。

「あまりよくないけど」

私が重いため息をつきながら引き返すと、居間で待ち構えていたかのように氷室が、

「あらずいぶんお早いお帰りだこと。……なにも持ってないようだけど、愚か者には見えないケーキなのかしら」

私はひどく憂鬱だった。

「いや……それが氷室さん、ちがうんですよ。地図をもらったのはいいんですけれど、見るまえにうっかり放し飼いされていたヒツジさんに食べられてしまいまして、あっはっは」

「最近のヒツジは、紙を食べるものなの」

氷室の冷ややかな瞳が私を射抜く。

「あっはっは、いやあ、もしかしたらシツジさんだったかも……。なのでできたらその、せめてお店の名前だけでも教えてくれないでしょうか。つぎこそは必ずやご期待に沿ってごらんに、……なんちゃって」

「…………」

「…………」

ひとしきりの沈黙ののち、がたりと音を立てて氷室が立ち上がる。

思わずびくりと反応してしまう私。

「いいわ。それじゃあ、わたしも一緒に行きます。ちょうど話もあったところだし」

「え……?」

「だからわたしが案内すると言っているの。なにか不満かしら」

氷室は呆然としている私の襟をつかむなり「ほらさっさと行くわよ」と玄関まで引きずってゆく。いったいなにを考えているんだ。目が怖い。

「そ、そういえば夕凪ちゃんと朝比奈さんは――」

「サヤはどこか遊びにいったわ。朝比奈さんももう寝るそうよ」

「えっと、買い物くらい私ひとりでも――」

「お茶くらいつきあいなさいよ」

「じつは私いまダイエット中なん――」

「うるさい」

私の言い訳に聞く耳を持たず、素足にサンダルをつっかけると氷室がずんずん歩いていってしまう。

彼女の長い髪にシンプルなワンピースの後姿や佇まいはどこからどう見ても清楚なお嬢さまのそれであるが、正面から臨んで睨まれてなおその考えを維持できる者はどれほどいるのか。気の弱い人間ならば、氷室の美貌と威厳のまえにうっかりひれ伏してしまいそうだ。

そういう意味で氷室にはサングラスをかけさせるべきかもしれなかった。いやさすがに言い過ぎかも。

「鍵はしめなくていいんですか?」

「ああ、」

私が尋ねたら氷室はぴたりと足を止め、

「そんなのいらないわ。……面倒じゃない」

たったいま思いだしたかのように答えるなり、どうでもよいとばかりにまた歩きだす。

どういう理屈だ……。

しかし管理人がそう言うのだからそれが正しいのは明白だった。

なにかあっても朝比奈がなんとかしてくれることを願いつつ、私は氷室の斜めうしろ二メートルほどの距離を保って歩く。

「どこに、行くんですか?」

「ここよ」

立ち止まり、簡潔に言った氷室に手渡されたのは、割引券だ。表にはドイツ語だと予想される男性の名前がアルファベットで記されており、それとおなじ名称の洋菓子店がどこにあるか、私は憶えていた。

裏面の周辺図(こんなものがあるなら最初からよこせ)を見てもやはり私の記憶に誤りがないとわかる。

「へえ、けっこう、遠いんですね」

無言。

氷室から返答がなく気まずい。思わずもう一回距離をとろうとしたが、露骨に離れるのも感じが悪い。

しばらくそんな感じで街中を歩く。駅に近づくにつれて人通りも増え、活気に満ちてゆくのがわかる。

対照的に私たちのまわりの空気が冷え冷えとしているように感じられ、背筋にいやな汗が伝ってゆく。

「氷室さん、そっちはケーキ屋と方向がちがうみたいですけれど」

「先にこっちに用事があるわ」

「そ、そうなんですか」

「そうよ」

……会話が続かない……。

並んで歩く氷室を横目で観察してみると、しきりにあくびをして眠そうにしていた。まあ、ふだんのこの時間、彼女は自室か居間でぐったりしている頃だから仕方ないといえば仕方ない。

 

◆ ◆ ◆

 

行き先は花屋だった。看板がついてないので店名はわからないが……、外で花の手入れをしている妙齢の女性――作業の邪魔にならぬよう肩ほどまでの髪をうしろで括り、Tシャツにジーンズという軽装にエプロンを着用している――が、氷室に気づくとにこやかに手を振った。

「おはよう」

「おはよう」

「あなたがこんな時間から外出とはめずらしいね。なにかいいことでもあったの?」

「なにもないわ。なんとなく、今日はちょっとだけはやく来る気分なの」

「ふうん。雪でも降るかもねえ」

快活に言って、女性は空を仰ぎ見る。どんよりとした曇り模様。雨なら降りはじめてもおかしくはないが。

彼女は氷室の親しい友人のようだ。氷室もわずかに表情をほころばせて「積もるくらいでちょうどいいわ」と返す。

「そちらは?」

「ん、荷物もち」

女性は気の毒に思ってか、ぼさっと立ち尽くす私へ話題を振ってくれたようだけれど、氷室の簡潔かつ的確な紹介に涙が出そう。

「ど、どうも。荷物もちです。この手で持てるものならなんでも運びます」

できるだけ好印象になるようにと言葉を選んで、アピール。

ほうと感嘆して私を見遣り、女性は苦笑して、

「この子に目をつけられるとは、あなたも大変ねえ……」

「どうでもいいわ。いいからいつものをよこしなさいよ」

はいはい、とおどけながら女性が店に引っ込み、と思えばすぐに花束を持って出てきた。

花束は持ち運びしやすく包装されている。

女性は花束を氷室に渡して言った。

「じゃ、気をつけてね。ミヤ、足元がふらふらしてるじゃない」

「あんたに心配されるほどのことでも、ないわ」

「転んでつぶしでもしたら、花が可哀想だから」

「うるさい」

氷室にここまで言える人物がいるとは……。対して、氷室は肩をすくめるだけで気にしてすらいない。わりと、ふたりにとってあたりまえのやり取りなのだろう。

「あのひとによろしく言っておいて。またね」

「またくるわ」

さっさと氷室が踵を返す。

私には目もくれずに先へゆく。

「では失礼します」

私が女性に会釈して急いで氷室を追おうとすると、

「ねえあなた。――あの子のことをよろしくね」

意味深な笑みと言葉をよこされて、私にはどうしたらよいかよくわからない。


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