ミルキーウェイ(みるきーうぇい)2
それにしても眠いなあ……。
この生活に慣れてきたせいだろうか緊張感が徐々に失われているような、気がしないでもない。差し迫った危機が感じられないせいだと思う。
しかし、気がかりがないわけでもなかった。
「…………」
朝比奈だ。
彼は夜行性らしく、顔を合わすのはおもに夕方以降。あれこれ探りを入れる(もちろん慎重にそれとなく、だ)以外には、ほんの世間話くらいしか交わさないのだが。
私とはじめ出会った当初に比べると、朝比奈はよそよそしくなった。すぐに視線を逸らすし私と二人きりになるのを避けている節がある。かと思えば私が妄想をして注意が散漫なときは時おり視線を感じる。
見えないけれど、一定の距離と境界線が築かれている。
「……警戒された、か……?」
この生活が始まって以来、私がしていることと言えば市内の徘徊と、手がかりともいえない情報の断片をつなぎ合わせる妄想だけだ。
傍から見れば、すこし変わった人間が世間より早めの夏休みを謳歌しているくらいにしか感じないはず。私としてもあれこれ探られるのは不本意であるから、できるだけ自然な振る舞いをしてきたつもりだった。
……思いつくことといえば。
朝比奈は“お爺さま”ともわずかながら面識があるらしい。一時期、雪割荘に彼しか住人がいなかった頃、維持管理はすべて彼が行っていた。
“お爺さま”直々に任されて。
加えて雪割荘の最古参の住人なだけあって、彼自身は真っ当な一般人ながらも、朝比奈が204号室の特殊性に薄々気づいているであろうことは予想できた。
つまり……?
「うーん……」
「なにをしているのマスター?」
「いや……これ、どうしようかなあって思って」
私が力なく指さした先を、蒼の視線が追う。
「うわあ、ぐちゃぐちゃだね」
蒼の正直な感想に、そうなんだよ、と私は首肯する。
私の目の前にはボストンバッグが無残にも打ち捨てられていた、……じゃなくて、床に中身をぶちまけて横たわっていた。
私は初日にもおなじような光景を目にしている。
あのときは片付けるのが億劫だったから散らばった画材をとりあえずバッグの中に突っ込んでおいたのだが。
「部屋を整頓するつもりが、ますます汚してしまったよ……あはは」
ふたのしめ忘れを失念したままバッグを持ち上げて、私は大惨事を引き起こしてしまったのだ。というかよく見ろよ私。ドジを売りにしてよいキャラじゃないだろう。
「慣れないことはするもんじゃない、かな?」
「よくわかってるじゃない……さすが蒼だね」
言いながら、私は散乱している画材を拾い上げる。
鉛筆のいくつかは芯が折れていた。無事なやつを見るに、芯を長く露出させるよう削っていたらしい。こうすると線を引くとき、角度によって変化を出せるのだが、しかし見た目のとおりに防御力が低下する。乱暴に扱えば折れるに決まっている。
鉛筆の救助が終わると、つぎに私は無秩序に転がる絵の具たちを手にする。想像力にまかせて床に一列に並べてみた。
「これは……」
絵の具は、色によって減り方がちがうものだ。
白は最も多用するから特別に大きいサイズだし、ふつうのサイズでも濃緑や黒などは手がつかなかったりする。絵の具を一セット購入して使い始めても、何度も買い足し入れ代わる色があれば片隅でひっそり眠り続ける色もある。
手元の絵の具にもやはりそういった傾向が見られたものの、偏りがあり。
標準の一通りの色に加え、一面の青空でも描きたかったのだろうか青系の色が多くそろっている。が、赤はまったく見当たらず、使いきったのかもしれない。
「これは……こうして散らかっているさまを見ると、心理的な圧迫を感じるね。目をそむけたくなるよ。どうやら私は散らかっているのが苦手な人間なのだろうなあ」
どうやら整頓が苦手らしかった。
「あはは。それじゃあ、ボクがやっておこうか」
「うん、頼めるかな」
悪いと思いつつも、彼女の好意にすなおに甘えておこうとも考える。
もしかしたら、いまだこの部屋に足の踏み場があるのは蒼のおかげとも言えるか。
彼女の整頓能力は非常に優秀で、ひょいとボストンバッグを置きなおしたかと思えば、まるで元の姿を知っているかのような手さばきで画材を収納してゆく。躊躇を感じないそのさまは圧巻だ。
バッグの中に早回しでパズルが組み立てられるのと対照に、床は見る間にきれいになってしまった。