青色えのぐ


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他人を見る目(たにんをみるめ)4

「それでマスター。頼んだものは」

「あっはっはっは」

すっかり忘れていた。それはもう清々しいほどきれいさっぱり意識から消えていた。

「もう、マスターったら……」

蒼の小言を聞き流し、汗を吸った衣服を脱ぎ散らかして私は浴室に立て篭もる。

この雪割荘、流しやトイレ、シャワーもついて生活の場としては二階の各室だけで完結するのだが一階の共用スペースにも同様の設備がある(なにせ普通の民家だし)。

足を伸ばして湯につかりたければ一階の浴場以外に選択肢はないけれど、順番待ちやらルールやらでいろいろ面倒だから私はもっぱら自室で済ますことにしている。

「蒼も一緒にどう?」

「ボクは必要ないよ」

扉越しに誘ってみたらあっさり一蹴された。

「あらそう」

人形は代謝がないから汚れないというけれど、なんだかつれないよね。

「……まあいいけどさ」

私はそっと、鏡を覗き込む。

そこに映るのは当然、私の姿だ。

まっすぐで真っ黒の髪。ショートヘアとするにはやや長く、襟首にかからないくらいで切りそろえてある。顔立ちはわりと整っていて、長いまつげと薄い唇、髪型とあいまって人形的な貌。

身体も均整が取れてはいるが肉付きが薄く、全体的に線が細く、いかにも頼りなげだ。

はじめに見たとき、どことなく髪の長さに中途半端な印象を受けたけれど、頬にかかる髪をかきあげて気がついた。

古い切り傷の跡がある。

間近で目を凝らせばかろうじて色のちがう線が見えるていどで、向き合う相手の心象に影響を与えるとは到底思えないものだとしても。

たぶん、これを隠すために伸ばしていたのだと思う。

腕も。脚も。腹も。背も。そうと意識すれば、いたるところに同様の傷跡が見受けられた。どれもがきれいに治っているが……いずれもわずかに残っている。

虐待の類か? そのわりにはあまりに馴染んでいるように見える。自傷の痛々しさを感じないにしても、医療によるものでも断じてあり得ないだろう。

“私”がどういう生活を送っていたのか知れないし、どのように感じていたのかもわからない。

しかし目が覚めたときに私がまとっていた、できるだけ肌の露出を抑える服装。あれにはきっと意味があると思うのだ。

「こいつがそんな繊細そうな面構えには、見えないけどな」

自らの頬にそっと手を触れる。

だけれど仮に。これらを他人の目に触れさせたくなかったのだとしたら。

それが“私”の願いであるならば、……尊重してやってもよいとは、思う。

感傷だろうか。

なんだか死人に対するような想いではあるが。

「難儀な話だよ」

私は大きくため息をついた。

さっと汗を流して浴室を出る。

「ちょっとマスター! ちゃんと身体ふいて! ……裸で歩きまわるのはやめようよ」

「なあに言ってるのさ。私たちしかいないんだから」

「……もう」

言うと、蒼はソファに座りなおして雑誌に目を落とした。私の帰りが遅くなったばかりか買い物まで忘れたとあってご機嫌斜めな様子だ。明日にでも新しい本を買ってきてあげよう。

そう考えながら私は冷蔵庫からペットボトルの紅茶を取り出しグラスに注ぐ。

脱ぎっぱなしだった衣服をまとめて洗濯機のなかに放り込む。

首を振る扇風機に合わせて動いてみたり。スプリングの硬いベッドに腰掛ける。

無地の遮光性カーテンの隙間から覗くと外はまだ明るい。

ソファで蒼が本を読んでいる。

……以前の住人、仮にA子さんとすると、彼女が残してくれた数々の備品のおかげで、私たちはわりと快適に過ごせている。

どうやら彼女(の組織?)は実用一点主義だったようで室内はおよそ華やかさから遠く、長らくあるじが不在だったこともあってか生活感に乏しい様相だ。

例外といえば。

クローゼットに残された、フリルやらレースやらで飾られているいわゆる女の子らしい衣服。保存の状態もよいし大切にされていたのだと思う。手触りは最高だった。

これらだけがA子さんがほんとうに存在していたことを教えてくれる。

整えられたさまから人柄が見えてきそうなほどで、衣服の意匠を見るに夕凪とそう離れていない年頃かもしれない。

「ふりふりの、ひらひらー、……なんとまあ可愛らしい」

氷室の言葉。

――さわられたくないならもって行くでしょう。

果たしてそうだろうか。仕方なく置いていくことだってあるかもしれない。

ベッドサイドの、これまたA子さんのものであろう写真たては……からっぽだ。

「あれはきちんと持って行った、ってことだよな……ってうわっ」

心臓が口から飛び出しそうになった。いや本当に飛び出たらホラーだし致命傷になってしまうけれど。

……何気なく見遣ったクローゼットの姿見に映る像。

蒼がたのしそうに私を眺めていた。息をひそめて私の背後でだ。

「な、なにしてるのさ、蒼……」

彼女は家事全般のほかに気配を消すのも得意らしかった。

独り言を聞かせるのはべつに構わないが、不意に聞かれるのは恥ずかしいものだ。

「いつからそこに……?」

動悸の鎮まらぬ胸を押さえながら蒼に向きなおると、彼女にはめずらしく、意地悪そうに微笑む。

「可愛い服を悩ましげに見てたところから。……なあに、マスター。考え事?」

「まあね。蒼にこういう、ふりふりひらひらの可愛らしい服を着せてみたらとても似合うんじゃないかと、真剣に考えていたところさ」

「あはは。ボクにはお父さまがくれたこれがあるよ。マスターのほうこそ、そういうの着てみたらどうかな? すごい似合いそうだよ」

「……へえ、そういうことは初めて言われる、かな」

「わざわざ買いにいかなくても、それを着たらよかったのに」

「えーと、あのね。……蒼?」

「見てみたいなあ、マスターのふりふりひらひら。可愛いんだろうなあ」

「あー……」

たしかに。

丈も同じくらいだから着れるはずだ。私の外見が外見なだけに似合うかもしれない。肌を露出しないという条件にも合っている。

しかし、だ。

「あのさあ、蒼。もしかして怒ってる? 謝るよ」

「え? なにを? ボクは感じたことを言っただけだよ」

そうやって言い放つ蒼の笑顔の可愛らしさが、かえって私を怯ませる。

「……さいですか。んじゃ考えておくよ」

などと言って。

ほんとうに私がこれを着たとして、きみはどういう視線を私に向けるのだろうね?

私はどちらかというと視線に伴う痛みに弱い人間なのだ。

 

◆ ◆ ◆

 

ところでこの話には続きがあって、後日、すこしだけ親しくなった氷室にもおなじような提案をされて私は面食らうことになる。女の子の考えは、こういうところは似通うものなんだなあ、と思う。

私は着せ替え人形じゃあないのだと、そう遠くないうちに小一時間説き伏せておこうと心に誓うのだった。


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