雪割荘(ゆきわりそう)1
それは四日ほど遡る。
私がはじめてこの部屋で目を覚ましたときのこと。
◆ ◆ ◆
最初に意識したのは自らの心臓が暴れる音だった。呼吸は荒く、汗でシャツが背中にはりついている。頭の芯や全身あちこちが鉛でも詰め込まれたのかと疑うばかりに重い。
床に投げ出されて大の字で転がっていた私は、袖で頬の汗をぬぐい、天井を見上げながら呼吸を整えようとする。
とても大切な夢を見ていた気がして、思い出そうとしたけれどすでに霞みがかかって形を失っていた。
「……あー」
やけに喉が渇く。唇がかさかさだ。
なにか飲み物はないかと半身を起こして室内を見渡す、……という行為そのものによって異様さに思い至った。
――だって、たとえば自分の部屋であるなら考えずとも身体が動いて、コップを手に取り蛇口をひねって水を飲んでいるはずだ。なのに調べなくては動けない場所……私は、ここをどこだか知らない。
見知らぬ天井。傷が目立つフローリングの床。小さな食卓。流しは清潔だ。冷蔵庫は無骨で威圧感を放ち。寝室は薄っぺらい壁で申し訳ていどに区切られている感じ。シャワーとトイレは別々。つきあたりに洗濯機が設置されている。生活感のうすい部屋。
そうして視線をさ迷わせてあれこれ思い浮かべて考えていると、決定的な違和感にたどりつく。ようやく静まってきた心拍がふたたび大暴れ。血流の音さえ聞こえてきそうだ。
そもそも私が誰であるかを思いだせなかった。
こんな馬鹿なことがあるだろうか。……記憶喪失。文字にしてみれば簡単なものだが事象として起こり得るのか。いやいや、もちろんそういう症例があるからこそ、それに該当する名称が定められているわけで――
がんがん。どんどん。
騒音、に思考を遮られた。音源は扉(たぶん部屋の外に通じている)。ノックと呼ぶには乱暴すぎる扱いで、軋む音もセットだった。まさか壊れはしないだろうが……。
心臓の鼓動がますます早くなる。
いやな予感がすると直感が訴えかける。
やり過ごしたほうがいいかもしれない。
私は居留守を決め込み、その人物が諦めて立ち去ってくれないかと淡い希望を抱いてみたが無駄。しばらくお祭り状態が続いてから、
「ちょっと! いるんでしょう! 開けなさい!」
女の声、だった。
私がいることを知っているのだ。彼女がどういった人間かは知らないけれど、私を引きずり出そうする確固たる意志が感じられた。……まずいな。
何気なく私は床に散乱している画材一式のなかから……光を反射して自己主張するパレットナイフを手に取り、扉を見据えた。
やれやれ。なぜだか妙に手に馴染む。彼女が私の敵でないことを祈るほかなかった。
「はーい。いま出ます。いま出ますよー」
深呼吸をし、錠をあけてそっと扉を開く。と、すかさず手を差し込まれ、隙間を押し広げられそうになる。もちろん私も扉に体重をかけてそれを防ぐ。
わずかにひらいた隙間から外の景色が見えた。二階の高さ。
やはり相手は女だった。あたりまえだが顔に見覚えはない。
「えーと、どちら様、でしょうか?」
「どちら様、ですって?」ふんと鼻を鳴らして女はいう。「そういうあなたこそどちら様なんでしょうね?」
「え……」
なんだ……? この女は何を言っているんだ? 要領を得ない。私を誰であるか知らずに? べつの人間を訪ねてきたのか? あるいは部屋をまちがえたというベタな可能性も浮かばないではないけれど。
私が返答に窮していると女は焦れて声を荒げた。
「あなたはお爺さまのお客様だそうですね。お爺さまのいいつけもありますから滞在することには反対しません。ですが、“雪割荘(ゆきわりそう)”現管理人であるわたしに挨拶に来ないというのが気に食いません。――あなたはいったいどちら様なんでしょうね?」
物静かそうな外見に反して口がよく動く女だった。少しばかりうんざりする。
いらだっているのは確かだがお客様との言葉どおり害意はないと見てもよい。私が不法侵入の末に立て篭もっているという線は消えたと考えられるが、いったいどこのどちら様なのだろうか……。
と、そこに新たな登場人物。
「おはようございます」
眼鏡をかけた男。二十代の後半といったところだろうか。背丈は私より頭一つ分ほど高く長身だが細くてひ弱そうだ。見るからにインドア派という風体だった。
「あら朝比奈さん。どうなされたんですか。もう寝ていらっしゃるのかと」
「ええ、それがなんだか眠れなくて」
ははは、と人がよさそうに笑いながら朝比奈がこちらを向いた。私と視線がぶつかる。
「おはようございます。僕は朝比奈といいます。こちらは管理人の氷室さん」
「あ、おはよう、ございます」
……そうだ、名前だ。やばい。いくらなんでも相手に名乗らせておいて私がだんまりを決めるのは不自然すぎる。名前、……名前。私はだれなんだよ。
どこからどう見ても挙動不審なさまで私が視線を泳がせていると、扉でふたりから死角になっている自分の左手。握り締めたパレットナイフの柄に掘られたイニシャル「K・F」が目についた。
「わ、私は、……ケイと、呼んでください」
とっさに口にして、ふたりの釈然としない表情を見てからしまった、と思った。自己紹介の場で名乗らないのは不自然だが、名乗ったうえで不自然というのも救いようがない話で、そんなことなら適当に佐藤や鈴木とでも設定すればよかったのだ。
これじゃあどうぞ怪しんでくださいと言っているようなものだ。
案の定またもや氷室が突っかかってきた。
「ケイ? なにケイさんなのかしら?」
「あー、それはきっと」朝比奈がこちらに目配せ。「ペンネームみたいなものじゃないですか……ねえ?」
……助け舟を出してくれた、のか? 冷や汗が止まらない。
「ま、まあそんな感じだったりそうでなかったり、あっははは」
「ふうん」
朝比奈がなにか耳打ちすると氷室が不満そうに鼻を鳴らしたが、彼のことをよほど信用しているのか、私を頭のてっぺんからつま先まで睨むように観察すると、
「まあいいわ」
あっさり引き返していった。
朝比奈の思考過程がよく分からないが追及を免れられるのならちょうどいい。“そういうこと”にさせてもらおう。
氷室が曲がり角に消えたのを確認してから、朝比奈がそっと囁いた。
「氷室さんはいいひとなんですが、朝はあまり機嫌がよくないんですよ。お気を悪くなさらないでください」
「ありがとうございます。えーと、その……氷室さんにはなんと?」
「いえいえ。そのことでしたら大丈夫ですよ。それよりお食事ご一緒しませんか。すぐ作りますから、用意できたら下りてきてください。詳しい話はそのときにでも」
「は、はあ」
なにが大丈夫なのか。
一方的に告げて、朝比奈は去っていった。どうやら私は助かった、のだろう。それもひとまずはという限定的なものだが。
できることなら今すぐにでも逃げ出したかった。だが私にはどこに逃げたらよいのかさえわからない。……何かを知っているらしい朝比奈に従うのが、無難だと思われた。
背筋を汗が伝い、喉がひたすら渇いている。
なにがなんだかわからない。