雪割荘(ゆきわりそう)3
目覚めると彼女はきょとんと私を見てなにか納得したかのように頷き、笑顔で言った。
「おはようございます。マスター」
鞄の中で丸まっていた人形。彼女がいうには最初に目覚めさせた私が“あるじ”なのだそうだ。名前は――行儀よく自己紹介してくれたのだが、私が舌をかんで発音しきれなかったため“蒼”という愛称で呼ぶ許可をもらった。情けないかぎりだ。
ちなみに女の子であると教えられたのもそのときである(神に誓って他意はない)。
最初こそ度肝を抜かれたが蒼の人懐っこい印象に親近感が湧き、打ち解けるまでに時間はかからず。
心細かったと言うのもあるけれど。
胸が温かくなる笑顔って本当にあるんだなあ。
◆ ◆ ◆
そんな感じで蒼との共同生活も三日めを迎え。だいぶ心身ともに落ち着いてきたところで現実的な問題が浮上してくる。……衣類だ。
というのも、私といっしょに運び込まれた荷物のなかに着替えがなかった(このことからも普通の旅行ではないとわかる)。
衣服に替えの余裕がなく、それこそ洗濯中は全裸ですごすという手もあるけれど、同居人に申し訳がないしうっかり氷室たちに見られたら人間性を疑われかねない。
食事なら朝比奈が起きてくる夕方にでも何気なさを装って一階に下りればおこぼれに預かることができるが、まさか服を貸してくれとは言えず早急に解決すべき課題であった。
幸いにも金は唸るほど目の前にあるわけで。
ちょっと使うくらいだったら構わないよね。
もしも持ち主が現れたらあとで返せばいい。
「それじゃあ買い物、いってくる。なにか必要なものは?」
「そうだなあ。もうすこしちゃんとしたもの作りたいから、これ、いいかな」
そういって蒼が私にメモを手渡す。見るとスーパーマーケットで容易に手に入るであろう食材の一覧。どのような料理ができあがるのか想像してみたけれど、芳しくなかった。
「わかった。じゃ、またあとで」
「行ってらっしゃい。マスター」
駅周辺まで行けば衣料品店なんていくらでもあると当たりをつけて歩きだす。
期待どおりに難なく発見。安さが売りのカジュアル衣料量販店だった。この際あれこれこだわっても仕方ないから大量生産品をまとめ買い。お洒落さんを名乗るには心もとない品揃えでも実生活を送るのに不足はない。
あとは蒼に頼まれた食材を買うだけという段になって、ソフトクリームをかじりながら氷室との会話を反芻する。
「あんたの部屋、まえは女の人がよく使ってたみたいだけど、しばらくいないみたいね」
「みたい、って」
「わからないのよ。わたしも突然の話だったし」
彼女がいうにはほんの三ヶ月ほど前、消息が途絶えがちだった“お爺さま”から連絡が届いたらしい。雪割荘をくれてやるから管理を頼む、と。そして(厄介な)客人のお世話も一緒に任されたという。
その客人専用にあてがわれた部屋というのが私の住む204号室。今ある生活するに困らないだけの最低限の設備の数々は、以前の住人が残していったものだった。
「へえ、そうなんですか」
「そうよ。だから部屋にあるものは気兼ねなく使っていいわ。もともと客室ということでこれという住人は決めてない部屋みたいだし。もう帰ってくるかもわからない……さわられたくないならもって行くでしょう」
だから足りないものだけ補充すればよいということだが。
ますます奇妙な話だった。……まるで隠れ家じゃないか。
経緯は知れないがこの件に“お爺さま”が絡んでるのは確実で、それも重要な位置を占めているだろう。問題はその意図だ。私は文字通りただの客人なのか、もしかしたら非合法的ななにかをするために、もしくはしたあとなのかもしれない。
「見ず知らずの他人のことをあれこれ考えるのは不毛だな……」
そういう意味では私を運んできたという“お友達”、黒スーツの実行犯とやらにしてもおなじだった。この目で確認しないことには実在さえ怪しい。
私が自身の置かれた状況を把握するのに何もかも材料が乏しすぎるのだ。
身元を確認する上で真っ先に改められる財布や身分証、いまや一人一台もめずらしくない携帯電話、とにかく私という個人を特定できそうな代物を、私は何一つ持っていなかった。……せめてどういった素性の人間だったか手がかりさえ残っていれば。こんなにも面倒なことにならなかったろうに。
「恨むよ、私をさ」
考えたくもない妄想だが仮に私が逃走犯の類だったとしてここに長く滞在していたせいでお縄もしくは命を落とすなんてことになったら救いがない。以前の私、言ってみれば“他人”のせいでゲームオーバーだなんて、……ごめんだ。
ああ、くそ。いったい私はどうすればいい。
頭にもやがかかってよい考えが浮かばない。
「――あれ、」
立ち止まり、できるだけ不自然でないように周囲に視線をめぐらせた(脳内の設定ではちょっと日陰で休みたいのだけれどいいポジションはないかなー、という感じ)。
誰かにつけられている。と、思う。
もちろん確信があるわけでもないが、この感覚は誰かに見つめられているときのそれに近い。
たとえば雪割荘の敷地内、庭の探索をしていてふと視線を上げたら猫がこっちを見ていたり氷室がこっちを見ていたりと、あながちまちがいでもないようなのだ。
しかし駅ビルのすぐ近くというだけあって人、人、人。主婦や学生、サラリーマンやその他もろもろが歩いていて見分けがつかない。葉を隠すなら森の中、というやつ。
……黒スーツの男、か。そんなのちっとも珍しくない。もうすこしこう、金髪のちょんまげだとか左右異なるブーツを履いているだとか、そういう特徴らしい特徴をもっていればいいのに。