ミルキーウェイ(みるきーうぇい)7
ひらひらしているタンクトップっぽいの(名前がわからない)と膝上までのハーフパンツという軽装に短めの髪がよく似合う年頃の少女。
果たして、204号室への侵入者は夕凪だった。
「け、ケイさん、どどどうしたんですかそんな慌てて……あ、そういえばミヤコさんといっしょのはずじゃ……」
どう見ても、夕凪のほうが、より慌てている。
ふだんは私の姿を知覚するなり飛びかかってくる彼女ではあるが、私の尋常でない様子に直面してドン引きしていた。仮に私が夕凪の立場だとしても、たぶん見て見ぬふりをするだろうなあ、という感じ。
それくらいひどいはずだ。
しかし、夕凪が慌てふためいているのは私の惨状にではなく、この場に私が――部屋のあるじが現れたことが原因だろう。
「なにを、して、いるんだ。……私の部屋で」
私は私で相手が夕凪であると確認するや、安堵とか疲労とかがいっぺんに押し寄せてきて、力が抜けてへたりと床に座り込んでしまう。ついでだからとスニーカーも脱いだ。できるだけ、余裕のある態度で。
「あ、いや、あたしはべつに怪しい者ではありませんよ! 本当ですよ! ちょっとそこを通りすがっただけで――」
あたふたと両手を振って夕凪は自分の潔白を主張しているが、かるくパニックを起こしているさまは滑稽を通り越して哀れみすら感じ、逆に私に冷静さがもどってくるほどだ。
しかし、である。
たとえ相手が夕凪であっても、私が不在のとき、施錠されていたはずの私の部屋にいることに関してなんら説明になっていない。私がいるときでさえ、誰一人として室内に入れないようにしてきたのだ。
「それが本当だとしてさ、隣人の室内を通りすがっちゃう人間が怪しくないというのは、どこの世界のお話なんだい?」
「あ……うう、それは」
「それとも扉が勝手にひらいたのかな? そういうおもむきのオート機能というのは、私は寡聞にして知らないのだけれど、もしかしてそれが最近の流行なのかな?」
私は立ち尽くす夕凪の横を通り抜け、流しでコップに水をくむ。さりげなく寝室に目を向けると、蒼はとても人形らしい佇まいで、ベッドのうえ身を固くして腰かけていた。
これならただの人形にしか見えない。
とりあえずは、蒼は無事と見てよいだろう。
私は一息に水を飲み干す。
「なんとなく――」
だん、と音を立ててコップを置くと夕凪のほうへ歩み寄り、私は、彼女の目を覗きこんで言った。
「なんとなくね。おかしいとは思ってたんだよ」
「な、なにが、ですか……」
私の意味深げな言葉に、夕凪は身構える。
「ん? そりゃあ、なにがって。なにがおかしいかって。たとえばね夕凪ち――」
「サヤです」
「サヤちゃん。私は街中を歩くと、よく視線を感じるんだ。……いや、誤解しないでほしいのはね、サヤちゃん。べつにこれといって私の容姿が人目を引くとか、観衆の注目の的だとか、そういったうぬぼれではないんだよ」
「…………」
語りながらもさりげなさを装い、無言でいる夕凪のまわりを時計回りに歩いて、ふたたび私は扉の前に立つ。くるりと大仰に夕凪に向きなおり、続ける。
「いつの間にかはじまっていて、気がついたら消えている。その感覚はたぶん間違いでない、と私は考えている。こっそり隠れてだれかが見ているんだ、私のことを。おかしいよね。私はそこまで人気者であるつもりはないのに。……で、なにが言いたいのかというと、」
その視線を初めて感知した日ときみと出会った日が同一で、きみのもっていた地図と呼ぶにはあまりに不恰好な小道具、そして――、
――と脳内にある即席の台本をじっさいに言葉にする直前、耳に激痛が走った。うしろから引っ張られたようだった。
「いだだだだだだだ!」
「ちょっとあんた、いい度胸してるじゃないの」
囁き声が耳元で。
氷室だった。
もう追いついてきたのか。……この私が背後をとられるとは。
「ちょっ、うわっ、氷室さん痛い! すごい痛い! 耳に穴があいちゃう!」
「あんたのほうがはるかに痛々しいわ。わたしの家に土足で上がりこむなんてまともな神経じゃないわね。あちこち足跡つけてご満足かしら、お客さん」
「み、ミヤコさん!」
夕凪が安堵して、氷室の名を呼ぶ。
氷室はケーキ箱も救急箱も下に置いてきたのであろう、素手で、204号室に足を踏み入れる。そして私が脱ぎ散らかしたスニーカーを見ると眉間にしわを寄せた。
「サヤ、ただいま。なんかこいつ頭を打っておかしくなってるみたいだから、へんなこと言われても気にしちゃ駄目よ」
……相手が脳震盪を起こしかねない平手を放つ女が、よくいうよ。
「え――。あー、そうなんですか……」
夕凪の、なんだかとても可哀想なものを見ているような瞳が深刻につらい。そんな目で私を見るな。氷室はというと、射殺さんばかりに私を睨んでいた。そんな目で私を見るな。
もういやだ……。
氷室の手を振り払い、私はいう。
「どういうことなんですか、氷室さん。私の部屋に勝手に入るだなんて、そんなの聞いてない」
びくり、と夕凪の肩が震える。
「言ってないもの。言ったら意味がないでしょうに」
平然と言い放つ氷室。しかし管理人がそう言うのだからそれが正しいのは明白――ちょっと待て。
私はプライバシーの侵害であると訴えているのに、対する氷室の回答はどこかずれていないか? 一見かみ合っているようだが、私たちはちがう話を論じていないか?
「氷室さん。それは、いったいどういう――」
どういう意図があって、言ってるんだ? 場合によっては、……それなりの対応をしなくては、ならない。
「――あなたは、なにを考えているんです?」
「さてね。いまは、足跡のスタンプをきれいに落とす方法を考えているわ」
氷室は涼しげに応える。問いへの答えには、なっていない。
「あ、あのう、ケイさん? ミヤコさん?」
夕凪は不穏な空気を読み取ってか、私と氷室を交互に見遣っておろおろしていた。いつも笑顔を絶やさない夕凪が、そんな表情を浮かべているだけでこちらにまで不安が伝播してきそうだ。
と、そのとき。
「さてみなさん――」
誰もが思いをめぐらせ、声が上ずっていたり甲高かったりするばかりのこの空間で、唯一ともいえる、落ち着いた低音域の声が響いた。
「ひとまず、ちょっと落ち着きましょう」
今ごろになって二階に上がってきた朝比奈が204号室の開け放しの扉をノックし、しかし室内はのぞかぬように心がけてかうしろを向いて、紳士的に呼びかけてきたのだ。
「お茶も用意できてますし、下でお話の続きをしませんか」
私がとっさにほらを吹き、どうにかして夕凪をこの部屋から遠ざけようと策を労した結果がこの泥沼だというのに、なんと驚き、この男はただの一言で私の目的を達成してしまった。
たいしたやつだ。
◆ ◆ ◆
と、いうわけで。
一階の居間のちゃぶ台に、私たち三人は向き合っている。先ほどまでの張り詰めた空気――といっても私が一方的に作り上げた感が否めないが――は幾分か和らいでいて、朝比奈はキッチンでいつもより四割増ほど豪華な料理を作っている最中だ。
さて本題はというとそれはもう厄介な話。
つまるところ。
氷室からマスターキーを借りうけた夕凪が私の部屋に忍び込んだと、ただそれだけで。
むろん彼女らに悪意があったわけでないのが厄介な話の厄介たるゆえん。彼女らは私を驚かせようとこっそり歓迎会の準備をするつもりだったらしい。
歓迎会だってさ。思わず笑ってしまいそうになる。
朝からみんながそろっていたのも。
氷室が私に買い物を頼んだことも。
たしかに私の感じたとおり、特別ななにかをやらかすつもりでいたことになる。
「もうばれちゃったみたいだから隠す必要はないわね。つまらないわ。……つまらない。で、ほかになにか質問は?」
私はひっそりと、そうと知られないようため息をつく。
「つまり今日、氷室さんが私を連れまわしたのは、これの時間稼ぎみたいなものだったのですか」
まあそうね、と氷室は答える。
「それだけでもないけれど――まあ、そんな感じ」
すると役割分担は料理・朝比奈、装飾・夕凪、進行・氷室といった感じか。
だいたい、よく考えたら、私は敷地から出ずに引き返したのに「遊びに行った」はずの夕凪とすれ違っていない。
「ミヤコさん、帰ってくるの早いですよう。これから飾りつけだったのに……」
氷室に、夕凪が口を尖らせていった。
「ほんとうはもう一度、ぎりぎりで『買い忘れがあった』ってデパートまでひとっ走りさせるつもりでいたのよ。なのにこいつが」
なのに私がよけいなことに気がついて、暴走をはじめたというわけで。
氷室の計画に狂いが生じ、どうやら私は空気が読めない人間らしかった。
ところでいま氷室がひどいことをさらっと口にした気がしてならない。
「それにしても……、あの地図はよくできていましたね。ぎりぎり読み取れそうでいて、しかしあのまま私が地図をたよりに進んでいたらまちがいなく迷っていた……。だけでなく、あのタイミングで私が引き返してくるのも見越してフォローを欠かさないとは」
「地図はべつに普通だったけど」「あの地図がどうかしました?」
賞賛したつもりでうっかり喋った私に、きょとんとした二対の視線が突き刺さる。なんだよ、あれは素でやってるのかよ、こいつら。
感心して損した。
その感情の変遷がもろに私の表情に出ていたらしく、疑問に感じたのか氷室と夕凪はまたもや同時に、私に問うてくる。それはもう息ぴったりで。
「ん? なあに?」「どうしました?」
「あ、いや、あっははは……」
私が笑ってごまかしていると、朝比奈が測ったかのように、ちょうどよくお茶と茶菓子を持ってキッチンから現れた。ナイスだ朝比奈。私は心中で胸をなでおろす。
「お待たせしました」
「あ、朝比奈さん、あたしが持ちますよう」
「ありがとう。熱いから気をつけて」
こうして見ると、いちばんまともでいちばん大人なのは、やはり朝比奈だった。雪割荘の唯一の良心。私は、彼に助けられてばかりでいる気が、しないでもない。
だからその朝比奈に避けられているとしたら、私は……と、よけいな思考は後回しだ。
頬杖をついて私はいう。
「それにしても、歓迎会か。私は、そういったイベントに参加するの、はじめてかもしれない。嬉しいなあ」
「ええー、そうなんですか。ケイさんって、学校とかでも人気者かと思っていたんですが。……ひっぱりだこすぎて、お呼ばれしてもほかのグループによる妨害工作があったと言われるほうがまだ信じれますよ」
「ははは、そんな物騒では、なかったような気がするよ」
たしかに他人事のようではあるが、こういった容姿なら、それなりに学生生活ではお得だったのかもしれない。付随する厄介ごとを差し引けば、だが。
「ふん、サヤと朝比奈さんに感謝することね」
氷室がそっけなく言う。
すると、立ったままの朝比奈とお茶を配っている夕凪が顔を見合わせてくすくす笑って、それに気づいた氷室は「ちょっとなに笑ってるの」みるみる平静さを失ってゆく。
氷室がふたりを恨めしげに見遣ると、朝比奈は「おっと鍋が」とキッチンへ退避、夕凪は目を逸らしてにやにや顔。……なんだ?
「そ、そんなことよりあんた。なんで部屋に入られたくらいでそんな焦るのよ。やましいことでもあるのかしら。言っておくけど、おかしなことしてたら承知しないわ」
いきなり矛先がこちらに向いた。あまりの唐突さに、私の対応が遅れる。
「え――いやそれは。えーと――」
「まさかとは思うけど、あんた隠れて子猫でも飼ってるんじゃないでしょうね。ペットは駄目よ。許さないわ」
氷室の勘はするどい。まあ、子猫と言えば子猫だが、飼うという表現には語弊がある。
私が反論しようとすると、
「ああー! そういえばそういえば!」
そのやりとりから連想したのか夕凪が表情を輝かせて、ちゃぶ台を揺すらんばかりに私のほうへ身を乗りだした。これは、子供が新しいおもちゃを見つけたような、瞳だった。
「ケイさん、あの可愛いおにんぎょ――」
まずい。やはり、蒼のすがたは夕凪の興味をひいてしまった。
「じつは!」
夕凪がそれに言及するまえに、ばん、と私が両手でちゃぶ台を叩く。
突拍子もない私の行動に、しんと居間が静まり返る。朝比奈も何事かと顔を出して、三対の眼差しが私に集まる。もう逃げられない……。
「じつは――私は、とんでもないものを、隠していました。だから、部屋を見られるのを恐れたのです」
「え、ケイさん……?」
「言ってごらんなさい」
「それは、」
逃げたくなるような緊張感。鼓動は早まり、汗が滲みだす。私は大きく息を吸い込み、そして言った。
「ベッドの下のエロ本を隠すまえに部屋に入られたら誰だって焦りますよ!」
私の魂の叫びが静寂を切り裂く。
氷室は表情を引きつらせ、夕凪はきゃあきゃあ声をあげ、朝比奈は口にした麦茶(推定)を盛大に吹いてむせている。それらを見届けて、私は同居人の愛しい姿を思い浮かべていた。
私と蒼のためとはいえ、まったくもって難儀なものだ。
◆ ◆ ◆
余談だが。
朝比奈の吹いた麦茶(推定)を浴びた氷室が着替えに行っているあいだ、夕凪がこっそり耳打ちしてくれた。
「じつは、歓迎会をしようって言いだしたの、ミヤコさんなんですよ」
「へえ……それは、意外だな。てっきり追い出されるものかと思ってた」
「あ、でもこれはミヤコさんには内緒ですよ。ぜったいに内緒ですよ」
私はもちろん、と頷く。どうせ氷室とはそこまで込み入った会話をしないだろうしな。夕凪の心配は杞憂に終わるにちがいない。
歓迎会というびっくり企画はターゲット本人に知られたことで変更を余儀なくされ、無難に飾り気なく一階の居間へと会場を移し。
氷室がいつもの部屋着でもどってきたので私はさっそくお礼を言うと、
「な、なにを言っているの。わたしはただ、七夕をお祝いしようと思っただけよ」
彼女はぎこちない様子で、私の知らない広い世界にこういった形式の七夕祭りがあると教えてくれて。
この日は夜になって嘘のように雲が消えてなくなり、窓から覗く夜空に星が煌めいていた。