雪翼 予告編
ある者は堅く瞼を閉ざし、ある者は神に祈りをささげる。なにかに悪態をつく者や剣の手入れに没頭する者とそのしぐさは多用だが、直面した現実から目をそむけたいという点で共通している。
しんと静まりかえった森のなか、だれもがさっさと災厄が過ぎ去ってくれるようにと身をひそめ、わずかな身じろぎの音だけが聞こえていた。
「へえ、それがあんたの家族か」
場違いな明るい声に、ひげづらの男が声を押し殺して応じる。
「ああそうだよ」
男が大事そうに手にしている懐中時計のうちには、若い女性と幼子の肖像があった。
「俺の愛しい妻と可愛い娘さ。いいだろう。このくそったれな仕事がおわったらうまいもん食わせてやろうと考えてたところなんだよ」
そりゃあいいや、と声の主――周囲の男どもと比べたら子供にしか見えない――は頭部を丸きり覆う黒い布きれを鬱陶しそうにいじりながら、口をひらく。
「オレもこのくそったれな戦がおわったらきれいな水を浴びたいよ。血と汗でどろどろでさ。まったく、無能な上官をもったオレらの不幸を呪うばかりだ」
ひげづらはわざとらしく左右を見渡して、
「おいおい、言葉に気をつけろ。いくら無能であられても上官どのを侮辱するのは罪であるぞ」
「ははっ、心配するなよ。肝心の上官どのはいち早く戦線を離脱して安全なところで腰を抜かしていらっしゃる。オレたちが生きて帰れるかわからんというのに、これがお耳に入ることはなかろうよ。流れ矢のほうがよっぽど怖えや」
ちげえねえ、とひげづらは笑う。
ふたりの会話だけがその集団の発する音のすべてだった。
ほかの者たちは耳をそばだて、ことの成り行きを窺っている。
「じゃあ決まりだな」ぽつりと黒い布きれのほうが言う。「……さっき斥候がもどってきた。やっぱり奴さんら、俺たちをぶっ殺したいらしい。このまま物量にものを言わせて包囲されたらなすすべがない。そのまえに」
「おいユキ。でもそれじゃあおまえが――」
ひげづらが声を荒げようとするのを、黒い布きれ――ユキが手のひらで制する。
「いうなよグレッグ。まさか、みんなでがんばって力をあわせれば勝てるとでも思っているのか? 冗談。奇跡ってもんは起こらないから奇跡なんだぜ。むざむざ殺されにいくようなもんだ」
ユキは反論を許さぬ口調で続ける。
「ならばより確率の高いほうに賭けるべきだろ。このむさくるしい面子のなかで、いちばん足が速いのはだれだ? いちばん手柄を立ててきたのはだれだ? いちばん生き残る確率が高いのは? そしてそもそも、この作戦を実行できうるのは?」
「――おまえ、だ」
ひげづら――グレッグは呻くように答えた。
「そうだ。オレしかいない。そして、オレひとりでなくては無理だ」
足手まといは邪魔であると言外にほのめかす。
自分たちの命運は目の前の若者の双肩にかかっている。ばかりでなく、その選択は若者を死地に追いやることでもある、……だなんて、このきまじめなひげづらは考えているにちがいない。
当のユキはそのようなことをおくびにも出さず平然としている。
「なあに、心配はいらねえ。死ぬとわかっててこの身を犠牲にするほどオレは信心深くないさ。うまいことやるよ。……帰ったらオレにもうまいもん食わせてくれよな、おとーさん」
「おう。うちのミートソースパイは絶品だぜ。だから、ちゃんと帰って来いよ」
「もちろん。そっちこそ、どじって俺の苦労を無駄にするなよな」
「あたりまえだ」
ふたりは視線を交わし、堅く手を握りあう。
「じゃあ、酒場で会おう」
「酒場で」
彼ら傭兵団が仲間を思うときの別れの挨拶。
そのやりとりを見守っていた連中からも控えめな歓声が上がり「すまねえな」「たのんだぞ」「生きて帰れよ」「こんど一杯おごるぜ」といった声がかかる。露骨に安堵している顔があれば良心の呵責に苛まされている顔まで。
建前はどうあれ共に戦ってきた仲間ひとりを見殺すも同然であれば、各々思うところはあるのだろう。
だけれど。
べつに――感謝されようとこのような役割に名乗り出たわけじゃない。
「ああ、任せろよ」
ユキは握り拳を掲げて応じる。
ただ、けじめをつけるためだった。
無言でユキは仲間たちの背中を見送る。
たぶん、あちらはグレッグがうまいこと切り抜けてくれるだろう。だから、こちらはこちらでしっかりやらなくてはならない。
「…………」
ユキは腰に下げていた自慢の双剣、フロスティスを鞘から抜いた。
これはまったくおなじ外見をした剣を二振りあわせて一対でフロスティスだが――右手に持つほうの刃の先端が鋭利な断面を見せて削り取られ、明確な差異となっていた
バターの塊に熱したナイフを通したら、あるいはこうなるのかもしれない。元の装飾が美しいだけに凄惨ささえ感じるさまだった。
「すまねえなあ、相棒」
頭部を覆っていた黒い布きれをほどくと、紫がかった白金の長髪が現れ風になびき、光を反射してきらめく。
フロスティスと同様、この髪色とも物心ついたときからのつきあいだ。
ふだんはいらぬ好奇の目線を厭い隠しているが。
目立たねばならないときがやってくると、とても重宝している。
わりと気に入っている髪色だった。
「それじゃあそろそろはじめようか」
今ごろ、仲間たちは森のなかを隠れながら国境を目指しているだろう。
だからユキは、隠れるのに適したこの森を飛び出し、数百からなる追っ手どものまえにその身を晒して注意を引く。その後はやつらにちょっかいを出しながら逃げ回り、仲間から遠ざかるように誘導する。
――と、グレッグには伝えてある。
しかし。
ユキにそのつもりは毛頭なかった。